(2があるかはわからない)
後→:詭弁・誤謬論 2 論理包含と誤謬 - リムナンテスは愉快な気分
もうすぐ平成も終わろうとしていますが、平成はインターネットの時代でしたね。気がつけば、いつでもどこでも誰とでも繋がれる世界になっていた。
ところでインターネットが普及するにつれて、ネット上に存在する情報の鮮度が落ちてきている気がする。SNSとかで本当に誰でも簡単にネット使えてしまうからか、適当な情報を流して混乱に陥れようとする勢力がちらほら見られる。しかも当の本人たちは自分が嘘ついてると思ってないから平気で嘘を流す。一昔前に2chの管理人が嘘を嘘と見抜けない人にインターネットを使いこなすのは難しいとかなんとか言っていたが、まあなかなか難しいところではある。自分が正しく認識しているかどうかは自分ではわからないから。
あからさまな嘘情報に限らず、しばしば、いやそのりくつはおかしいっていう言明に出会うことがある。し、人々は間違った推論をしがちである。間違った推論をして間違った認識をするんだこれが。また、戯言を勝手に否定的に捉えて負の感情スパイラルに堕ちたりする生き物なのである。声なんてただの空気の振動だったりするのにね。そういうバグが何故かあるんですね。ついつい反応してしまう的な。正確には反射なのかな。意思というか知覚する前に反応してしまうせいで自動思考が始まり、そしてネガティブを引きずることになる。
なんでこういうことをしてしまうのか。大体こういうことする人間は論証のどこかで誤謬を抱えている。誤謬、あるいは故意にやってるなら詭弁というが、そうやって自らの首を締めてしまう誤謬というやつを知っておくことは非常に大事なのである。たとえ誤謬に堕ちたとしても自己修正が可能になる。
誤謬を学び、誤謬を知覚することで世界を正しく認識するのが誤謬論をやる目的である。嘘から身を守る為に嘘のつき方を学ぶみたいな感じになるかも。尤も、正しい認識で幸せになるとは限らないけど。せめて幸せな妄想くらいさせてほしい。とにかく、己が身を嘘、捏造、謀略から守ろう。
ああ、それからこの序論に誤謬が含まれているかもしれないが、筆者である私は知覚していないし多分できない。
この下から本題
もともとは論理学的な論証の誤りについて考えるものなんですが、ここでは心理学的なのとか、もう少し広い意味での誤謬について取り扱おうかなぁと思っています。
誤謬の分類は議論学でも議論されているらしいが、誤謬は大きく分けて2つ、形式的なものと非形式的なものがあるらしい。
形式的誤謬は、推論を間違えていることによって論証全体の妥当性が無くなること。仮に前提と結論が合っていたとしても、推論の論理が間違っていればそれは誤謬なのである。確率とか因果関係の原理を正しく理解しないで使っている場合もこれになるらしい。(【】内の数字は取り扱った回)
- 後件肯定【2】
- 前件否定【2】
- 連言錯誤
- 選言肯定
- 4個概念の誤謬
- 媒概念不周延の誤謬
- 媒概念曖昧の誤謬
- 合成の誤謬
- 分割の誤謬
- 伝統に訴える論証
- 新しさに訴える論証
- 同情論証
- 権威論証
- 多数論証
- 脅迫論証
- 対人論証
- 状況対人論証
- 自然主義の誤謬
- 道徳主義の誤謬
非形式的誤謬は、そもそも前提が間違ってるとか、考える前提が漏れているとか、そういう理由によって妥当性が無くなることを言う。アリストテレスの時代から結構考えられていたらしい。それと認知バイアスにも関係する。統計学的な誤り、社会的帰属の誤り、記憶の誤りなど。形式的には論証が正しかったりするので、形式的誤謬よりも厄介。
- 公正世界誤謬
- 早まった一般化
- 誤った二分法
- 間違った推論
- 例外の撲滅
- 偏りのある標本
- 疑似相関
- 前後即因果の誤謬
- 滑り坂論法
- 因果関係の逆転
- テキサスの狙撃兵の誤謬
- 論点先取
- 論点回避
- 論点すり替え
- 燻製ニシンの虚偽
- お前だって論法
- そっちこそどうなんだ主義
- 循環論法
- 曖昧語法
- 多義語の誤謬
- 連続性の虚偽
- 多重質問の誤謬
- 未知論証
- 燻製ニシンの虚偽
- 藁人形論法
- 充填された語
- 連座の誤謬
- 隙間の神
(各例は整理中、間違ってるかもしれない)