リムナンテスは愉快な気分

徒然なるままに、言語、数学、音楽、プログラミング、時々人生についての記事を書きます

新・自由七科構想再考

前回までの新自由七科論では、まだやはり既存の学問体系から逃れられていなかったのかもしれない。 既存の枠組みを破壊して、現代、そしてこの先の未来で真に強い人間として生きていくための知識、知恵の集合を作らなければならないのではないか。 自分でも言っている意味がよく分からなくなってきたが。 我々が生きる世界の情勢というのは刻一刻と移ろうものであり、当然のことだが、過去の常識は通用しなくなる。200年前の常識で今現在を生きて見よと言われても無理なのである。(いつまでたっても昔の価値観が忘れられないクソ老害共(限定用法)を見ればわかるだろう。個人的には非常に不快である。中にはその年の功でもって素晴らしい知見を授けてくれる人もいるが。) まず、今がどういう世界なのかを考えてみると(日本からあまり出てないので、日本にいる身としての視点ではあるが)、 ・各分野の過度な専門化による個人間の知識の断絶、ブラックボックス化 ・技術革新の代償としての、人間機能の衰退 ・インターネットなどの普及による情報散乱、信用できないマスコミ ・資本主義の崩壊(過労や不況など、経済バランスの崩壊) ・世界の再魔術化 なんというか、馬鹿の声が大きくなりすぎて世界が傾いている。そして他人の不幸を願うかのごとく、いちいちケチをつけ、碌な代替案も出さずに、嘘の情報はまき散らされ、物の価値もわからなくなってきたところでしょう。人類は互いの首を絞めあい、どんどん不幸に落ちていく。なんか最近みんな病んでるよねぇ。 で、だ。我々は己の幸せを追求するべきだし(中にはそうじゃない人もいるけど、そういう人はそもそもこの記事読まない)、他人から己の人生に干渉食らっている場合ではないのである。社会性?そんなもん身に着けるな、被るだけにしとけ、ファッションと一緒 もっとこう、あらゆる固定観念、制限、軛から己を解放しようぜっていうのを新自由七科のコンセプトにしようかと思う。騙されないためにも。 文部科学省が教育の目標に「知・徳・体」を掲げている。これは割と的を得ていると思うのだが、現実で行われている教育というのは薄っぺらいよなあとも思う(無論学校というのは基本的に集団教育なので致し方ない部分もあるのだが)。で、これに「精神世界」を加えた以下の4つを軸に己を磨き上げるのがよいのではないのだろうか。

    ・他人に騙されないための「知識」、「知恵」 ・「倫理」、「道徳」(人として) ・強靭な「肉体」 ・強靭な「精神」(≠奴隷力)

さて、上記4つは「動機」であり「目標」である。 ここからは上述の項目の「実現方法」について述べようと思う。 のだが、ここから先はまだ考えがまとまっていません。ので、メモ程度に捉えてください。 いわゆる今の日本の「教育」というのは、一方で「客観」を重視(=「主観」の軽視、主観的なものの捉え方を否定)し、また一方で「無個性化」(他人と違うことを否定、行き過ぎた同調圧力非科学的、非論理的な謎ルールの強要)するというよくわからない状況である。質の悪いレールに乗っかっても、都合よく他人に流され搾取されるだけの存在に成り下がってしまう。 もちろん学校教育も基礎教養が身につくし、ある程度重要なのだが、もうちょっと「主観」というものを重視した知識を学んで見るのもいいんじゃないかという提案です。 で、この考え方を徹底しているのが「魔術」の考え方。「各個人が思う『魔術』こそが『魔術』だ」という信念が表しているように、基本的に魔術師は己の理解範疇を大事にしている節がある(と私は思う)。まあ宗教ベースのオカルトと言われてしまうと終わりなのだが、主観世界を大事にしている点では理にかなっているのではないかと思う。我々は主観で世の中を見ているのだ(量子力学も割とそんな考え方してるけど)。 というわけで「魔術」の教えをベースに、とりあえず何を修得しておいたほうがよいかを列挙すると、

    ・鍛錬(筋トレなど、主に肉体) ・倫理 ・経済(究極の幸福追求) ・論理 ・心理(催眠、瞑想なども含む、主に精神)

くらいはあったほうがよくて、あとは前回まで考えてきたものとの取捨選択になりそう。