リムナンテスは愉快な気分

徒然なるままに、言語、数学、音楽、プログラミング、時々人生についての記事を書きます

理不尽な批判に対する精神防衛術〜人間は必ず死ぬ〜

どうやら私は多分HSP完璧主義らしく、常に生きづらさみたいなものを感じている。


いわゆる「すごくよくわかってしまうからつらい」というやつである。


一瞬の相手の言動、言葉のチョイスから声の高さ、スピード、表情、態度、その人の普段の性格、環境情報などを一遍に受け取って感情を読み取ろうとしてしまう。いや、読み取りたくはないんだけど勝手に入ってくるといった方が正しいかもしれない。普通の会話をしていても相手の感情が流れ込んでくる。


そして、完璧主義なので、常に人間として完成された態度を取ろうとしてしまう。とても疲れる。とても疲れるので行動がブレる。


結果どうなるかというと、誤解に基づく「攻撃」を食らうことになるのである。


そして、相手が「攻撃」したくなる気持ちもなんとなく分かってしまうので反論しづらい。周囲との調和を重んじるので、「お人好し」になってしまう。


当然そういう生活を続けていると鬱になるので(実際なった)やめたいのである。


でもやめ方がわからない


しかし逆にやめ方さえ分かれば人間もう少し幸せになれるはずなのである。


結論から言うと、
全ての人間はどうせ死ぬのでどうでもいい


この記事では、くだらない他人の攻撃から精神を防衛し、気持ち的に楽に生きれるような方法論について考えます。

対内的な対処

感情を安定させる

そもそも自分のメンタルが揺らいでいると、その後の対応を誤る可能性が高いです。


時間が無駄になっていないか?
くだらんやつのために貴重な時間を割いてやる筋合いはない。


人間関係は永遠ではない

大多数の人間との人間関係は数年持つか持たないかである。小学生の時に仲が良かった人と大人になってから頻繁に連絡をとるか?もちろんそういう人もいるが、居て数人である。だいたいの人間関係は数年で切れる。もうどうでもよくない?

対外的な対処

これを読んでいる人は恐らく他人から何かを言われた時、我慢して話を聞いてやってしまっている。
それで心が病むのはなぜか。


それは相手がこちらのことを考えずに好き勝手お気持ちを表明しているのに対して、こちらは我慢して聞き込んでしまう非対称性にある。


しかしなあ、「誤解」に基づく批判を放置していると自分に不利になることがある。そのため積極的に己の立ち回りをよくしなければならない場合もある。さあどうしよう。

アサーティブ・コミュニケーションでお気持ちをぶつける

アサーティブ・コミュニケーションというやつ


事実描写→気持ちを表明→求めるものを提案


という順番で話すことで、下手に相手を刺激することなくこちらの感情を吐き出すことができる。
一方的に感情を吐かせるな。


吐いとけ!


相手を傷つけたくない?人の気持ちや置かれた状況を想像できないようなやつに回してやる気もちなどない。
遠慮なく吐いていこう。


いっそ会話を「型」にしてしまって、心の負担を減らす。単純作業なら感情を挟まずにできる。まあ万が一それでなんかうだうだ言われてもクソどうでもいいのである。人間なんてどうでもいい。

そもそも本気で接しない

我々のような「気がきいてしまう」人たちは、恐らく誰にも本気で接しすぎなのである。どうやらそうらしい。


こういう状況に陥った時は正気ではないことが多いんで、なんでも鸚鵡返しでもいいかもしれない。
鸚鵡返しするだけ。かんたん。


あ、でも本気で接しているように「見せる」ことは大事かもしれない。くそ。


人間にそこまで価値はない

そこらへんの人間に大した思考力も想像力もない

こちらがどれだけ気をつかってやったところで、それを無下にするやつは無下にする。これはもう「受け手次第」で、こちらでコントロールできるものではない。

絶対不可避な「死」の前では、残酷なまでに人間は平等

ああだこうだ批判してきたり、イヤミを言って人を不快にしてくるやつは必ずいる。
あるいは、迷惑をかけてしまうのではないかと他人に譲歩してしまうこともあるだろう。

しかし、好かれようが嫌われようが、死を前にしては誤差でしかない。

それならば、そんなどうでもいいことに心苦しく思ってやる必要もなければ時間をかけるべきでもない。

宇宙の年齢は138億歳と言われている。
そのうち人間一個体が生きているのは精々100年程度。
宇宙レベルで考えれば本当に一瞬だし、誤差でしかない。


いま目の前にいる人間なんぞあと100年もしたらだいたい死んでるし、人間なんぞ大した価値はない。

好かれようが嫌われようがどうでもいいのである。死人に口なし。