大前提
お前は疲れている。休め。寝ろ。
結論
- 夢
- 希望
- 快楽
- 贈呈
これら4つは無理矢理にでも、強引にでも、持たなければならない。
たとえ根源的に意味がなかったとしても。嘘でいいから。
夢
「医者になる」とか「公務員になる」とか「海外で活躍したい」とか「金持ちになりたい」とか大層な「夢」が持てるなら立派だと思います。けど別にそうでなくてもいい。
なんかもう少しこう、チープというか、しょうもないことでいいんよ。「働かずに生きる」とか。最高の夢じゃない?
あるいは、「死ぬとき、死ぬ前くらいの時期はどこに居たいか、どういう気持ちでいたいか」とか。南国の島でハンモックに揺られてのんびり暮らして死ぬとかでいいんじゃないの。老人ホームでもいいと思うよ。
あと死に際か。「楽しかった」と思って死ぬもよし。なんとも思わずに死ぬもよし。
いま、飯を作ること、食うこと、温泉に入ること、惰眠を貪ることくらいでしか純粋な楽しさ感じてないけど、それを維持するとかでも立派な夢だと思うの。それでいいじゃん。
希望
希望を持てたら苦労しない。
「人はいつか死ぬ」というのはある意味で希望であり救済だとは思わないかね?
快楽
「気持ち良さ」「心地よさ」を感じることがもはや人間の使命なのでは?
首絞めが気持ちいいとか言う人いるけど、死に際って苦しみを和らげるために快楽物質でる説あるよね。
生命維持に関してもそうなんだから、もっと「気持ち良さ」に貪欲になってもいいんじゃないかな。
贈呈
その肥大化した承認欲求を満たしてあげるためには、やはり「誰かのために」という気持ちで何かしてみるのがよいのではないだろうか。とりあえず自分の利益は考えずに。情けは人のためならず。
ただ、自分の矜持とか、そういうのを削ってまで、自分を犠牲にしてまでやらなくていい。そういう意味で「奉仕」とかではなく「贈呈」なのである。案外「自分を大事にしすぎない」方がよい場合もあるけど。
とりあえず物でも知識でも道具でも金でもなんでもいいからいっぱい生産しといて余ったのをあげる。そのうち誰かからも余ったのくれるようになるよ。誰かの施しを期待しすぎるとあれだけど。
以下駄文
物質の時代、所有の時代は終わった。
我々は不必要なものだけを必要とする世界に生きている。
ポジティブとネガティブは表裏一体
であるが故に無意味
究極的に生きる意味は無い
すべて泡沫に帰す
だからこそ
人類には幻覚が必要
あと制御できないものを一生懸命やろうとするのは無理、変えられるものを一生懸命変える
楽しかった経験を無理矢理にでも線形増幅させる
悲しい、つらい、苦しいといったネガティブな経験を脳は勝手に増幅させる。そういう(邪魔な)機能が残念なことに備わっている。
野生時代の名残なんだろうけど、現代人類の生きるこの世界は最早自然の状態ではない。ならば「非自然」的な世界を生きるための思考、行動に無理矢理にでも持っていかなければならない。「自然」的な思考、行動をすればこの世界では病む。これは脳のバグである。
だから、苦しいことより楽しいことを「無理矢理」反芻すること。
オスカーワイルドの皮肉に満ちた有名な言葉がある。
The optimist sees the doughnut, the pessimist sees the hole.
楽観主義者はドーナツを見て、悲観主義者はその穴をみる。
どちらがいいかの議論に突っ込むと話が逸れるので、楽観主義者的価値観の方がよいという前提で話を進める。
で、ここから「物事の良い面を見ましょう」という話になるのが、よくあるポジティブシンキングである。
しかしそこで思考が止まらない人も一定数いるはずである。私もそうだが。「ドーナツ」を見ることも「穴」を見ることもできる、ということは「ドーナツであるか、穴であるか」は本質的に定まっていないということであり、人間の恣意的な決定は本質に何ら影響を与えない。世界は根本的に無意味。死んだら私の思考は消える。文書でも書けば後世に残るとも言えないでもないが、少なくとも「思考する実体」は消える。
じゃあ結局生きる意味って何だろうか。よく「誰かのために」とかなんとか言うが、それは生きる意味がないのに他人にそれを依存させているだけである。あるいは人のためにやることで無意識に自分の居場所存在価値を高めようとする営みなのである。そいつが居なくなったらどうすんの。そうやって自己の存在を見失って病むのである。
使命に燃えてもいい。それはそれでいいと思うけども。しかしまあ、世の中どうとでも捉えられるし、所詮は環境に対する反応でしかない。
生きる意味を失うと、生きるのがつらくなる。もちろん生きる意味がないからである。そしてこの世界に生きる意味などない。仏陀は2000年前にそのことに気づいていた。現代人類もようやくそこに追いついた感がある。遅い。でも気づいたから偉い。
仏教の何がよろしくないかというと、生きることの意味は根本的に無いからといって現世を結構諦めてるところにある。あれは現世を諦めて来世のために生きようとする教えである。私も諦めたことがある。しかしそこに堕ちると何も頑張れない。頑張れないというのは生き地獄である。生きたくないけど死にたくはないジレンマの狭間で結局死なずに生きてしまっているのがつらい。なんでそうなるかって、前世の記憶がないのに来世の存在を信じられるだろうか。あるいはあったとしても記憶が継続されないなら、それは「私」なのだろうか。歪んだ賢さを持ってしまったら最後、このくだらない現世でくたばるしかない。
そうやって精神崩壊すると人によっては自分を殺めるか他人を殺めるかしたりする。自分の世界に対する影響力、効力を確かめたいから。コーヒーは最初飲んだ時は砂糖を入れても苦く感じたのに、今ではコーヒーはブラックしかあり得ない。コーヒーの苦さが沁みてしまう。まあきっとリストカッターもそうなのだろう。痛みってのは安直に「生きている実感」
を経験できてしまう。病めば病むほど痛みは快感に化ける。
だから、「根本的無意味」を乗り越えないとならない。間違っても死にたくはないのである。
歪んだ「欲望」は人を苦しめるが、「無欲」もまた人を苦しめるのである。
多分ここにたどり着いた人は、そもそも「欲望」を持つ気力すら削がれてしまった人が多いのではないかと思う。
己の欲望を復活させる為にも、まずは休んで欲しい。そりゃあもう「頑張りすぎだ」って野生の本能が言ってるようなもんですよ。
少しくらい休んだところで世界なんてちっとも変わらないので、ゆっくり休むのが大事。
人間なにもしないとなると逆に何かしたくなる生き物なのである。
積極的休養については下の記事を参照してほしい。